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3話 消えない差別の理由

last update Last Updated: 2025-03-10 14:30:03

 帝都から、南部レルヒェ地方までの距離はなかなか遠いもので、汽車でおおよそ半日の旅となる。そこから更に数十分馬車に乗り継ぎ、ヴィーゼ伯爵家に。

 現在は昼過ぎ。帰る頃にはもう暗くなっているだろう。なかなかの長旅だ。

 ファルカ駅から汽車に乗り込んだキルシュは車窓から移り変わる景色をぼんやりとと眺めていた。

 日中の列車となれば当然乗客が多い。四人掛けの対面座席のシートは全て埋まっていた。

 都会の人間はそんなに他人をジロジロと見ないだろう。

 そうと分かるが、乗客も多いからこそキルシュは能有りの紋様を隠す為に上品なレースのあしらわれた薄手の手套をはめた。

 謹慎処分中の宿題も学院から出されたが、今はまだ手を付ける気になれやしない。

 ぼんやりと窓の外を眺めて、このまま時間なんて止まってしまえば良いのに……なんて、非現実的な空想ばかり浮かべていた。

 けれど、いつまでも続く錆色の街を眺めていても気が滅入るばかりだ。

 帝都中心地に聳え立つ、大聖堂の左右対称の円錐屋根が小さくなり始めた頃、キルシュはようやく外の景色を見るのを止めた。

 ほぅ。と、一つ息を吐き出して、気持ちを切り替える。そうして、キルシュは鞄から一冊の本を取り出した。

 それは、ツァール帝国建国時程に書かれた神話や民話などを寄せ集めた古書で、古本市で購入した大のお気に入りの一冊だった。

 しかし、この書物は旧語で綴られているので、とてつもなく読みにくい。それでも、全く読めない訳でもなかった。

 否……キルシュだからこそ読めるのだ。

 彼女は確かにパトリオーヌ女学院の成績最下位、劣等生だ。

 だが、それは重要科目の理数学においての事。

 古典文学・語学・史学といった大して成績に加点されない、部類の学識に対しては、学院で右を出る者はいないと程にこの才だけは長けていた。

 大陸にある周辺国とツァールに程近い離島国。合計五~六カ国語なら問題無く読み書きができる。キルシュとしてもほんの少しだけ誇れる特技だった。

 近隣国の言語においては、文法と法則さえ掴めば決して難しいものではない。

 それは、今日では古文と言われる旧語も同じだ。

 言葉は少しばかり冗長だが、法則さえ掴めば解読は簡単で、今日使われているツァール語と大差は無かった。

 数式を解く事は微塵も楽しいとは思わない。けれど、古文の羅列を解く事は心から楽しいと思えた。

 それでも、あまり役に立つ学識ではないので、〝劣等生〟に変わりない。語学も同様だ。貿易商などで働き、外国人との交渉の場があるのなら便利に違いないが、女貴族は今の時代も基本的に仕事なんてしない。

 女の学識というのは、あくまで男の補佐に違いなかった。

 それでも、成績というのはその娘が、どれだけ優秀か、有能かを図る大きな材料に変わりない。なので、今日の貴族の娘の結婚は、成績の良し悪しで縁談が来る・来ないと分かれるものだった。

『この才能が、理数学であればどれ程幸せだったのだろう』と、考えた回数は数知れず。人には得意不得意はあるので、仕方ないとほぼ諦めているが、これでは完全に将来嫁ぎ遅れるだろう。キルシュはほんの少しだけ、そんな焦りも持っていた。

 なにせ、クラスメイトたちの話に耳を傾けていれば、どうにも半数ほどの生徒が既に縁談があるのだと思しい。中には既に婚杓者がいる人だっていて……。

 自分には何だか、程遠い話のように思える反面で、少しだけ羨ましいように思えてしまう部分があった。

 現在十七歳。いつか恋だってしてみたい。素敵な男性に見初められるなんて淡い夢は抱いてしまう。しかし、何だかそんなの事は、夢のような話に思えてしまう部分もある。

(……さて。そんな事より、私どこまで読んだんだっけ)

 はぁ。と、ため息を一つ。キルシュは本の中身に向きあった。

 バラバラとページを捲って索引へ。

 ──精霊の項に魔獣の項、ツァール聖教の成り立ち……忌々しい神とされる刻の偶像の項に現在の信仰、機械仕掛けの偶像の項。

 これまで多くの古書を読んできたが、どれも似通った宗教じみた話が多い。

 そもそも、ツァール帝国と宗教の歴史は切っては切り離せない程に深いものに違いない。なぜなら、教権主義は今昔変わらないが、国が変わったと同時に崇拝も変わったのだから。

 帝都の象徴とされる、巨大なファルカ大聖堂だって本当は旧国の神を讃え祀っていた聖域だった。歴史的に築五世紀以上が経ったと聞いた事がある。

 しかし、二百年以上前、旧国が滅びた事によって、新たに信仰ツァール聖教が広がった。

 そうしてあの大聖堂は、取り壊される事も無くステンドグラスや象徴を差し替えるなどして、今日も使われている。

 それは、ツァール帝国中の〝築五世紀以上経過した古教会〟はどこも同様だった。大抵どこも、建物はそのままで象徴・ステンドグラス・天井画が差し変えられている。

 それはまるで乗っ取るみたいに……。

 なぜこんな事が起きたのかといえば、熾烈な宗教戦争が起きたからとしか説明しようが無い。

 ツァール帝国以前の時代。今日では〝忌むべき暗黒期〟と呼ばれるツァイト王朝期は、能有りが国の上位に立ち、政を牛耳っていた。

 書籍によれば、かつて能有りの力、呪法ではなく〝聖法〟と、なんともおこがましい呼ばれ方をしていたらしい。

 彼らが崇拝したのは唯一神は〝クレプシドラ〟と呼ばれる刻の偶像。

 能有りの持つ力は、このクレプシドラから授かったのだと言われていた。

 しかし、旧国ツァイトの後期──世界は華やかな発展をし始めた時代だった。

 ツァイトは他国に比べ発展が遅れ、古典的だった。

 経済水域も低く、上層と下層で貧富の差があまりにも激しかったなんて言われている。また古書の一文によると、ツァイトの政は、聖職者や占者たちの「導き」を頼りにしていた。何事も神託や精霊頼り……と、いい加減だったそうだ。

  その癖に、西の国々一体に当時巻き起きた〝歪んだ真珠〟とも喩えられる絢爛豪華な文化が流行りに流行って、貴族王族、聖職者……と、上層の暮らしに色濃く影響されたそうだ。

 宗教的建造物も、これを大きく影響を受けていたとも言われている。

 だが、帝都の象徴とも言われるファルカ大聖堂は、ツァイト前期の尊厳たる文化のもの。

 所謂〝まだ良かった時代〟の産物だ。

 今のツァールの教えと変わらぬ、荘厳たる文化を強く主張した建造物だからこそ、そのまま利用しているそうである。

 片や、中~後期に起きた絢爛豪華な建造物においては戦乱で大半が焼却された。

 また、残ったものに関してもツァール帝国建国と同時に、忌々しいと全てが取り壊されたとされている。

 国が崩れた最大の原因は、忌々しい絢爛豪華で贅沢な文化は勿論の事。上層にいた聖職者を中心とする能有りたちが『刻の偶像に選ばれた神子』と自らを語り傲った事が、もっともの原因と言われている。

 よって、能を持たぬ者が反乱を起こし、新たな神……機械仕掛けの偶像と呼ばれる〝デウス・エクス・マキナ〟を降ろしたらしい。

 

  そもそもデウス・エクス・マキナとは演劇手法から由来する言葉である。

 ──舞台装置により現れ、裁きを下し解決に導く絶対的な存在。

 即ち、どんなに困難な場面からでも解決に結びつけてしまう。謂わば〝ご都合主義〟とも言うだろう。それを由来したのだと考察する事は容易かった。

 おぞましさを越えて神々しい──機械仕掛けの鳥、或いは機械仕掛けの天使としてステンドグラスや天井画に描かれたデウス・エキス・マキナは、強き力を用いて刻を切り裂き、このツァール帝国を造った礎に成り象徴となった。

 ──崇拝の象徴は歯車の中の火輪。その下には同じ長さの線で結ばれた十字が描かれ、翼を広げた鷹が強靱な足で掴んでいる姿が描かれている。

 この発展の象徴に助長するように、その後ツァールは製錬や機械科学の技術が発展した。そうして、幾度も戦を起こしては隣国を吸収し国は先進的な大帝国と成り栄えたのである。

 片や、かつて国の上位に位置した能有りは迫害を受けるようになった。

 新しい国が始まってすぐ、数多くの能有りが粛正された。

 また、生まれて来た子に能があれば、森や湖に遺棄する〝精霊還し〟という間引きを行い忌々しい血を絶えさせようとした時期あったらしい。

  だが、結局は隔世遺伝か突然変異だ。

 両親が能を持たないとしても、能有りは生まれる事がある。

 それを一つ一つ虱潰しにすれば、いずれ労力も減り国が衰退する事を危惧したのだろう。よって今日の能有りは生かされる選択をされている。

  とは言っても、やはり忌まれた力を持つ者であり、〝かつての信仰に選ばれた者〟という印象が深く、親に捨てられる孤児が多い。

  尚、能有りとして生まれたキルシュの生い立ちにおいては、本人もよく分かっていない。

 前途した通りの孤児院育ちらしく記憶喪失だ。

 失われた記憶の事について、あまり興味は無かった。どうせろくでもないものだと想像できるので、取り戻そうとも思えなかった。

 なので、キルシュとしても『慈悲深い前領主に救われた』『幸運な孤児』としか思えなかった。

 当然、引っかかる部分は沢山ある。苦しく思う事は時々ある。

 救われている癖に劣等生……恩こそ仇で返す罪悪感は常々あるが、どうにもそれ以外にも滞りはずっと心の奥底にある。しかし、そこに手を入れて探るのは、どうにも怖かった。

 永遠に閉じ込めたままで良いだろう。そう思い続けて何年も。

 そうしていつしか、キルシュは自覚した。

 ……私は、心から笑った事が無い。

 笑えない、笑ってはいけないと。

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     ……そうだ、キスしたのだ。 それも初めてのキスで舌を絡められて、随分と官能的なキスをされたのだ。 しかし不思議と不快ではなくて、少し……いいや、びっくりするほど気持ち良かった。自分でも本気で意味が分からない。 途端にキルシュは真っ赤になって唇を押さえる。 それにあの記憶の中の少年が彼と同一人物の〝ケルン〟というなら……。『いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほしい!』そんな言葉を言われた気がする。つまり、最初から自分に好意を持っていたという事になる。  そもそもだ。初めて出会った瞬間に彼は『見つけた』と言った。 ファオルの件もあって、ずっとこの日を待っていたように窺えてしまう。 しかし幻視を見るだの、非現実的な事が起きている。あれは本当に、同一人物なのか。何らかの変な力を使って、都合の良い夢でも見せられたのだろうか……。 キルシュは真っ赤になったまま黙考に耽る。だが、そんな様子に心配したのだろう。「キルシュちゃん、どうしたの?」 顔が真っ赤よ。と、シュネに心配そうに言われて、キルシュは我に返った。 同性とは言え初対面だ。『そのケルンに唇を奪われた』だのさすがに言えたものではない。 キルシュは慌てて首を横に振るう。 「大丈夫です、すみません。色々思い出してぼーっとしてしまって」「いいのよ。でも、びっくりしたでしょう……あまりにもよくできた機械人形だって」「……はい」「私も初対面は驚いたわ。確か、あれは五年程昔かしら……」  ──きっと、私たちは似たような立場だから話してもきっと問題なさそうね。なんて付け添えて、シュネは、薔薇色の唇を開いた。「私、北西部にあるシュトルヒ子爵領の牧師の娘なの。母は優しかったわ。けれど、父は能有りの私を疎く思って。二人は私の所為で喧嘩ばか

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     パタンと、静かに扉が閉まる音がした。  暖かで柔らかな、陽の光に促されてキルシュはゆっくりと瞼を持ち上げる。(私は……ここは)    すぐに頭に過ったのは昨晩の二つの出会いだった。  喋る鳩に、自立し思考する機械人形。それも元人間、能有りと思しくて……。 どちらも、現実的ではないものだった。まるで夢でも見ていたかのように思う。だが、見知らぬ絵画の天井と身体を包む暖かで柔らかな掛け布団の感触に、ここが学院寮でも伯爵家の屋敷でもないとキルシュは改めて理解した。(……どこだろう)    疑問は湧き立つが、それ以上に空腹の方が気になってしまう。  どこからか、ベリーを煮詰めたような甘酸っぱい香りが漂ってくる。それがジャムだったら、パンにたっぷりつけて頬張りたい。そんな事を考えつつも、キルシュは寝返りを打つ。 それもそのはずだろう。最後の食事は前日の朝。帝都の寮で朝食をとったきりで何も口にしていなかったのだ。  せめて、部屋に運ばれた夕飯くらい食べればよかった……と、後悔して、キルシュはぺったんこになった自分の腹を摩ったと同時だった。   『ケケケ……。起きたか徒花の眠り姫』 軽い調子の声と共に、目の前にポッと光の渦がポッと灯った。そこから羽ばたいて姿を現したのは昨晩出会った、喋る鳩、ファオルだった。   (ああ、やっぱり夢じゃなかった)    もしかしたら自分は頭がおかしくなって、変な幻覚でも見続けていたのかとさえ思っていた。そうではなかった、よかった。と、改めて思い、キルシュは自然と唇を緩めて、安堵した顔になる。     そんな顔に見かねたのだろうか。ファオルはツンとキルシュの額を嘴で突いた。「いだっ」 『何を惚けた顔してんだよ~おまえ本当にお気楽だなぁ』 愛らしい子どもの声だが、やはり憎たらしい。  突かれた額を擦りながら、キルシュは恨めしくファオルを睨む。   「った……何するのよ、痛いじゃないの」 『だってさぁ。なーんかキルシュを見てると、腹

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   13話 思い出す事がただ怖い

     本当にどうしてなのだろう。なぜ、こんなにも悲しいのか、切ないのか分からない。  嗚咽を溢して泣くキルシュに彼はしゃがんで手を伸ばす。そうして、優しく髪を撫で頬を撫でて……濁流のように溢れ落ちる涙を掬った。   「泣き虫は相変わらずなんだな。ほら行くぞ」 ──立てるか? と、優しく言って。彼はキルシュに左手を差し出した。  そこにある太陽を象る火輪の紋様はいびつに引き裂かれていて……それを見た瞬間にキルシュの瞳は余計に潤った。  ああ、間違いない。先程の幻視の中で見たものと違いない。彼はきっと〝元〟能有りだ。そして恐らく、人間だったに違いない。そう考えるのが自然だった。   「……ケルン」 キルシュが小さく呟くと、彼はどこか切なげに笑んでキルシュの手をやんわりと握る。   「俺の名前、思い出してくれたんだ」  そうだ、ケルンだ。と彼は言って、彼はキルシュを抱き寄せた。 男の人に抱き締められたのは、記憶上初めてだった。  無骨で胸板が固くて少し厚い。機械人形にしてはあまりによく、出来過ぎている。皮膚も人間の質感と何ら変わらなくて、首筋から感じる匂いが何だか、温かなお日様のようで。何だか不思議と懐かしい心地がする。「……ねぇ、どうして。私は貴方の事を何も知らないのに、どうして」    分からない事が怖い。けれど、知る事が怖くて堪らなかった。  忘れた記憶が今にも蘇りそうだ。キルシュがこめかみに手を当てた途端だった。  目を瞑って真っ暗な視界の中、ボーンボーン……と柱時計のような音が鳴り、胸の奥がたちまち凍てつくように冷たくなる。    ────怖い。嫌だ、忘れたくない。忘れたくないよ。 しゃくり上げるように嗚咽を溢し、懇願する幼い自分が浮かび上がる。目隠しをされているのだろう。視界は塞がれていて、何も見えない。  身動き一つ取れなくて、ただならぬ恐怖で身体が強ばった。 ひっ。と、キルシュが、目を瞠った瞬間に、彼は途端にキルシュを今一度抱き寄せた。  まるで、〝そちら側に行くな〟という

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   12話 記憶の鍵はそこにある

     ──霞のかかった白の視界は次第に色が付き始めた。黄昏を連想させる金と茜が交じり合う……そんな光が空間いっぱいに満ちていた。 記憶に無いが、そこはどこか見覚えのある景色で……。唖然としたキルシュは辺りをぐるりと見渡した。 なだらかな曲線を描いて広がる木目調の高い天井に、高い場所にある窓には蔓草を象ったアイアンの窓飾り。どこかの礼拝堂だろうか。『なぁキルシュ!』 途端に呼ばれた少年の声にキルシュが、振り向くと壇上のステンドグラスの前に少年と少女が立っていた。年齢は十歳に満たない程で……。 その光景を見た瞬間にキルシュの側頭部はズキリと痛んだ。 そこに立っている少女は、紛れもなく幼い頃の自分自身。茜色の髪に、若苗色の瞳。そんな小さな自分の正面で手を差し出している少年は、真夏の陽光を束ねたかのような金髪だった。 しかし不思議と彼の顔ははっきりと見えなかった。 それでも大きな特徴が見えた、左手の甲にある火輪──まさに太陽を象ったかのような能有りの紋様がある。それをはっきりと見た瞬間にキルシュの胸は痛い程に爆ぜた。喉の奥が嫌に乾いて苦しい。(何なの、これは……私は確か真夜中の森に居たはずで) どくどくと自分の脈が煩くなって、呼吸が苦しい。 身体が心が〝これ以上は見るな〟と拒絶している感覚もあるが、壇上の二人から目が逸らせない。 幼きキルシュは差し出された彼の手を取り、やんわりと微笑んでいた。 ……自然に普通に笑えている。今ではできない事に、キルシュは唖然としてしまった。『おれね、キルシュが大好きなんだ。大人になっても最高の親友でいよう。それでな、いつか……いつかは……』 顔の見えない少年は言葉を詰まらせる。そんな様子に幼いキルシュは首を傾げて彼を見上げていた。『なぁに?』『──っ! いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほし

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   11話 初めては甘やかで

     ……と、言っても近すぎるだろう。 キルシュは彼からぷいと顔を逸らす。「な、何?」 いくら顔が格好良くて、人のように感情を持ち自立し思考するように思えても、人ではない。何を考えいるのか分からなかった。キルシュは、彼を一瞥した途端だった。すぐに頤を摘ままれて、無理矢理彼の方を向かされる。「……!」 頭から湯気でも上がってしまいそうだった。キルシュは真っ赤になって彼から目を逸らす。 堪らぬ羞恥は、具象の花を手のひらから次々に芽吹かせる。薄紅の蕾が膨らみぱっと小さな小花を次々に咲く様はまさに感情現れ。いたたまれない羞恥にキルシュは追い込まれる。「俺は一つ、おまえに頼み事をしなきゃいけない」 ややあって言った彼の声は少し震えていた。 おっかなびっくりとキルシュが彼を見ると、光る目のせいでうっすら分かる彼の顔が紅潮しているのが分かった。「頼み事?」 訝しげにキルシュは見る。彼は頷いた。「俺に少しヘルツを……おまえの〝心〟をくれないか?」「心?」 キルシュは眉をひそめて復唱した。 ──ヘルツとは、宗教学的に〝心そのもの〟を示す言葉だ。『心が欲しい』それがいったい、何を示すのだろうか……キルシュは困惑し何度も目をしばたたく。「〝心〟は力を発動させる為の原動力だ。さっきおまえを助けた時に、殆ど使い果たした。あと数時間しないと、俺の〝心〟は回復しない。このままだと俺たちは安全な場所に逃げ切れないと思う」 ──おまえを守らなきゃいけない、だから頼みたいんだ。と付け添えて。彼は、キルシュを上に向かせた。  確かこんなシーンは、夜に部屋で一人密やかに楽しむ娯楽、恋愛小説で見た事がある。 男性に頤を摘まみ上げられて、上を向かされて……そう。作中のヒロインたちと、全く同じ状態に置かれている。ああ、きっと、そうに違いない。 これから、されるであろう事

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   10話 森に似合わぬ救世主

     やがて視界いっぱいを覆い尽くした閃光が消え、露わとなった正体にキルシュは目を瞠った。    ──それは、齢二十に届くか届かないかという風貌の青年だった。  柔らかに逆毛の立つ短い髪。その髪色は暗闇の中でも淡い色をしている事が分かる。装いは暗色を基調としたジレにシャツ、下衣に革製のブーツを合わせていて、洗練された雰囲気のあるものを召している。  上背もあり、ぱっと見た雰囲気は、鋭い目付きが印象的。とても、精悍な顔立ちの青年だった。 しかし、射貫かれた瞳は人間のものではない。 その瞳は暗闇の中、煌々とした光を放っているのだ。それはまるで、真昼の陽光を絞り集めたかのよな眩い金色で……。そんな瞳の奥底に真鍮色のギアのようなものがゆっくりと回っているのが見える。  更によく見れば、彼の首や手首の関節部位には不自然な継ぎ目があって……。 ふと連想するのは、機械科学の産物── 「機械人形(オートマトン)……?」  キルシュは呟くと、彼は何も答えずに視線を反らした。「走るぞ」    ぶっきらぼうに彼は言う。そして、彼はキルシュの手首を掴む獣道を駆け出した。 その一拍後、禍々しい咆哮を上げて異形の生き物は二人を追い始める。「**あああああ! 許さない、許さない、憎い……憎い!**」  のろのろとまどろっこしい、呪詛のような言葉が後方から響き渡った。 しかし彼の足は速すぎた。とてもでは追いつけず、さっそく足がもつれて転びそうになった瞬間だった。「仕方ないな」 痛い程に手首を引っ張られて、腰を掴まれた。そうして抱え上げられるなり、彼の肩に担がれる。   「──!」 とっさの事に驚いてしまった。  落ちないようにと片腕でがっちりと腰に腕を回……思いきり、おしりを触られているが、もはやそれどころではない。 背後からこの世の生き物とは思えない恐ろしい奇声が聞こえてくる。  ふとキルシュが身体を少し起こして後ろを見ると、やはりあの恐ろしい生き物が涎を垂らして追ってきていた。「ね

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   9話 痛みの森

     新月の夜という事もあって、森の中はひたすらに暗かった。  しかし、カンテラなどの明かりをもっていたら、〝見えてはいけないもの〟が見えそうで、逆にこの真っ暗な方がかえって怖くない気がした。    森に入って一時間近く。キルシュは獣道を歩んで森の奥へと進んでいた。  時折、木の枝に引っかかったりもするが、問題なく歩けている。  こうも暗くとも暗順応が働き、目が慣れるものだった。それに針葉樹の隙間から見える星空を見る限り、星たちは西の方向へ動いている。  あと数時間で空が白み、夜明けを迎えるだろう。  それを理解すると、なぜだがホッとしてしまい、キルシュはその場にしゃがみ込んだ。「さすがに疲れたわ……」    家を出てから、ほぼ立ちっぱなしの歩きっぱなしでだった。  もう足が棒のようだ。膝も笑って力が入らなくなってきた。大都会で寮暮らしをするお嬢様にしては根性を出しただろう。ほんの少し自画自賛して、キルシュはその場に腰掛けた。 だが、そこで座ってしまった事が間違いだっただろう。  疲労から来る眠気は容赦無く襲いかかり、瞼が重たくなってきたのだ。  そもそも普段の生活では、日付が変わる前には確実に寝ているのだ。今の詳しい時間は分からないが、恐らく午前二時を過ぎたのではないだろうか。キルシュは瞼を擦って欠伸をひとつ。(せめて陽が昇るまでは起きていよう……) だが、もう一度立つ気力が湧かない。それに瞼は段々と持ち上がらなくなってしまった。国内屈指の心霊スポットだ。こんな場所で眠れるなんて自分の神経が意外にも図太いなんて自分でも心のどこかで感心してしまうが、体力的にもう限界だった。   (少しだけ、ほんの少しだけ……休もう)    すぐに起きるんだと自分に言い聞かせて。キルシュは、背を木の幹に背を預け眠りに落ちた。 それからどれ程の時間が経過しただろうか。  心地良い眠りを彷徨っていたキルシュは、どこか聞き覚えのある子どもの声に突如として叩き起こされた。『おい、キルシュ起きろ!

  • 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女   8話 森の先にある未来

     無計画に歩む事、幾許か。  真っ暗闇に静まり帰った真夜中の街を横切り、林檎畑の続く農園地帯を横切り、領地の南端の方までやってきた。  そもそも伯爵家のある場所が領地の南寄り。実際には大した距離ではない。 ……無計画とはいえ、家出は成功させたい。  やはり兄の言った言葉は到底許せぬもので、キルシュ自身むきになっていた。だからこそ、せめてこれくらいは成し遂げたいなんて思えてしまった。    とはいえ、二度と帰らないという程の心構えではなかった。  いつか帰って来て、立派になって見返してやりたい。と、ふんわりとその程度に思うだけ。  それでも屋敷を出るのに成功したのだ。何だか、今なら何でもできる気がして仕方ない。   (あのお兄様に〝ぎゃふん〟と言わせてあげたい。そうできたら最高) この家出を本当の意味で成功させるには、絶対に見つからないように、探し出せぬように。これが必須だ。そこで考えたのは、国外逃亡だった。 今、キルシュの目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。この森はシュメルツ・ヴァアルト……ツァール帝国と隣接するオルニエール王国の境となる森だった。 ……そう。レルヒェ地方でもヴィーゼ領は国境沿いの街だった。  だが、この深い森──シュメルツ・ヴァルトが理由してここには関所が無い。オルニエール王国との行き来するには、二つ以上離れた領地の川の関所を通らねばならない。  まさに抜け道と言えば抜け道だが……誰もこんな場所を通って他国に逃亡しようなんて考えもしないだろうと思えた。 だが、この選択は不思議と〝意図して〟というより自然と浮かんだものだった。  むしろ、勝手にこの方向に足が進み、直感的に悟っただけで……。(オリニエール語は一応話せるけど……ツァール語が普通に通じる地域が多いって聞いたわ。あちらで何かしら、仕事を見つけてどうにか生計を立てていけば暮らしていけるはず) きっと大丈夫だ。と、根拠も無い自信を心を弾ませて、キルシュは暗闇に広がる森を見る。  しかし、足は震えて一歩がなかなか踏み出せなかった。 この

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